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イラスト: Chika
Pochinosuke |
「エディ&ザ・クル−ザ−ズ」を従来の作品ジャンルに分類するのは難しい。この映画からはプラチナ・アルバムとなった大ヒット曲が生まれているが、かと言って単純な音楽映画とは片付けられない。エディ最後のテ−プをめぐるミステリ−の隠し味が効果的なサスペンスでもある。自動車事故のあと姿を消したエディ・ウィルソンは、リバイバル・ヒットによって、今やロック・シ−ンの伝説となった。きっとどこかで彼は生きている。その噂は今なお根強く流布している。エディはそんなにも人々を魅きつけた。
映画の核心となるこの状況を観客が受け入れること……。そんな状況を納得させる圧倒的な存在感がエディには不可欠である。マ−ティン・デヴィッドソン監督は、そう考えていた。登場シ−ンは少なくても、登場人物すべての意識下にエディは生き続けていなければならない。それがこの映画の出発点だった。デヴィッドソンは、作品の求心的役割を果たすエディに、まったく無名であったマイケル・パレを起用した。目利きの監督には磨かれざる原石の輝きが見えたのである。
デヴィッドソン兄妹の脚本は周囲の人物にエディを語らせる。彼らの言葉がエディを描写し、彼らのリアクションがエディの言動を説明する。エディその人の姿は消えても、クル−ザ−ズのメンバ−は、エディと語らい、エディの影を見ている。エディは、彼らの回想に出没する。あの角を曲がればエディの声が聞こえそうだ。
しかし画面を動きまわるのは「ワ−ドマン」フランク(トム・ベレンジャー)であり、過去のヒット曲を歌うのはサルである。エディの葬儀−空っぽの棺とエディの両親、仲間たちが教会から出てくる。教会の外には、エディ・ウィルソンを偲ぶファンの列、列、列……。依然としてエディは登場しない。シナリオの狙いは観客の想像をかきたてることだから。
「エド・サリバン・ショウ」に出演したという設定で、ようやくTVモニタ−にエディがあらわれた。映像はまだ黒白の時代、その週
On The Dark Side
が全米第一位になったのである。カメラはすぐに現代へ戻る。こうしてエディは、回想シ−ンにちらりと「出演」するだけである。当然のことだが、マイケルの出番は極めて少なかった。
映画が完成したずっと後になって、デヴィッドソン監督は「オフ・レコで」と前置きしてこう語ったことがある。
「この映画はトム・ベレンジャ−のものになるだろうと思っていたよ。文句のつけようがない素晴らしい演技だったからね。ところが終わってみると、どうみてもマイケルの映画だったね」
オフ・レコの条件つきだった監督のプライヴェ−トなコメントは、結局83年10月2日付けロサンゼルス・タイムスの紙面に掲載された。試写を観た関係者全員が同じ感想をもったので、もはやオフ・レコの内緒話にする必要はなくなっていたのである。
後年エディUのインタヴュ−でデヴィッドソン監督のオフ・レコ発言について尋ねられ、マイケルはこう答えている。
「最初の最初っから、エディはトム・ベレンジャ−の映画だと思っていたし、それ以上のことは考えてもいなかった。だって、トムはもうビッグ・ネ−ムの役者だった。ギャラだってすごかった。部屋なんか彼ひとりだけスイ−ト・ル−ムだったんだよ。せりふは全部彼のために書かれていたし、ね。とにかく彼は何もかもすべてを手にしていた。それこそ監督のプラン通りだったんだ」
映画の撮影当時、トム・ベレンジャ−は俳優としてすでに高い評価を得ていた。とりわけ「ミスタ−・グッドバ−を探して」(77年)のゲイ役によって、演技派ベレンジャ−の評判はますます高まっていた。
「実際のところ、僕の出番は少なくて、最初の編集カット版には、ほとんどいないのも同然だったんだ」
「別に驚くことではなかった。なんたって、これは僕の映画デビュ−だったんだもの。映画のセットにいる、というだけで大満足だったんだ。ラッキ−だと思っていた。映画に出られる。それはもう、すごくハッピ−なことだったんだ」
「出番は少ないけど、僕の役は映画のタイトルなんだよ。最高だったね」
デヴィッドソン監督の脚本・演出プラン通り、トム・ベレンジャ−は達者な演技を披露した。20年という時間の経過を、ちょっとした目の動きやしぐさ、せりふの緩急によって巧みに演じ分けている。それはクル−ザ−ズの他のメンバ−を演じたジョ−・パントリア−ノ(ドク)やマシュ−・ロ−レンス(サル)、ヘレン・シュナイダ−(ジョアン)と比べれば、一目瞭然である。ドクの髪は白くなっており、ジョアンはやつれ気味のメ−ク、サルの今っぽく長髪にしたヘア・スタイルなど、彼らは外見上の変化を加えてはいるが、それはどこかしら空疎に見える。メ−キャップに頼ることなく時間を表現しつくしたベレンジャ−が、格上の役者であることは異論のないところであろう。
最初の編集バ−ジョン試写の日(編集:プリシラ・ネッド)。これを観た監督は愕然とした。撮影中に実感した「映画のマジック」が全く消えてしまっているのである。聴衆を魅了したエディはどこにもいない。覆面試写の評価も芳しくなかった。
「エディだ、彼がいないんだ」 デヴィッドソンは、未編集フィルムの中からマイケルの出演場面を集め、彼のシ−ンを評価し直した。そして試写、再編集……。リズム感を欠いた、例えば葬送シ−ンのように、エディの動きがない場面はカット。要するに、編集をすればするほど、マイケルの出演シ−ンは増えていったのである。
「劇場公開版が完成したとき、それこそ本当にぶっとんだ」
ベレンジャ−はなお主役であり、一番多い出番をキ−プし、一番多いせりふをしゃべっている。物語の狂言回しとして正に出ずっぱりである。しかし、エディの印象は強烈だ。主役をくった挙げ句、映画そのものをエディの、マイケルのものにしてしまった。「エディ&ザ・クル−ザ−ズ」は、マイケル・パレの映画になったのである。
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